薬研堀不動院について
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薬研堀不動院は、大本山川崎大師平間寺の東京別院です。当院は隅田川の河畔に堂宇が建てられてより、江戸の町・東京の街と共に歴史を重ね開創430年余となります。
特に江戸時代には江戸三大不動(『江戸名所図会』等で紹介)として知られていました。江戸天保年間より幾多の変遷を経て今に至っています。
御本尊・不動明王尊像は、崇徳天皇の代、保延3年(1137)に真言宗中興の祖と仰がれる興教大師・覚鑁(かくばん)上人が、43歳の厄年を無事にすまされた御礼として一刀三礼敬刻され、紀州・根来寺(ねごろじ)に安置されたものです。
その後、天正13年(1585)、豊臣秀吉勢の兵火に遭った際、根来寺の大印僧都(だいいんそうず)はそのご尊像を守護して葛籠(つづら)に納め、それを背負ってはるばる東国に下りました。そして、隅田川のほとりに有縁の霊地をさだめ、天正19年(1591)、そこに堂宇を建立しました。これが現在の薬研堀不動院のはじまりです。
その後、明治25年(1892)より川崎大師の東京別院となり現在に至っています。また、順天堂の学祖と仰がれている佐藤泰然(たいぜん)が、天保9年(1838)に和蘭(オランダ)医学塾を開講した場所でもあります。
京都の仏師・長田晴山師が原型を制作した、身丈六尺の弘法大師尊像である。一歩一歩巡錫をすすめられる遍路大師のお姿が、躍動的に表現されている。
この尊像は弘法大師1150年御遠忌記念として建立され昭和59年12月1日、当時の平間寺第44世貫首 髙橋隆天大僧正によって開眼法要が修行された。
正面に「子寳地蔵」の文字が刻まれ、その霊験あらたかということで、時折新しい前掛けや頭巾が奉納される。前掛けには「ありがとうございました」という文字がみられることがある。
隅田川で不幸にも溺死した子供の供養のために、昭和33年に建立された地蔵尊である。
聖徳太子はすぐれた政治家であり、文化人であり、その業績は広く知られている。また、深く仏教に帰依し、その生涯を通じて仏教の興隆に力を尽くされ、日本の仏教の祖といわれている。本碑は、昭和35年まで当院住職であった宮原隆浩師の書になる。
古く江戸時代から町民に信仰されてきたお稲荷様で、平成4年完成した薬研堀不動院信徒会館の角地にその古い歴史を物語っている。この矢ノ庫(やのくら)稲荷は不動院の鎮守として、当院が護持しているが、これに協賛して地元の有志が世話人会を発足し共にお護りしている。
古い記録によれば、安政5年(1858)「太平記場起源の碑」が建立され、その後当院境内に移されたが、大正12年(1923)の関東大震災で講談ゆかりの碑が消滅した。現在の碑文は平間寺第44世貫首 髙橋隆天大僧正の撰・筆であり、昭和59年12月1日に再建されたものである。
江戸時代当地は、医者街といわれたほど、医者が多く住んでいた。順天堂の学祖と仰がれている佐藤泰然が、天保9年(1838)に和蘭医学塾を開講した地に、現在の当院境内地が含まれていた。この縁から、学校法人順天堂の申し出により境内の一隅を提供し「順天堂発祥之地碑」が建碑された。
歳の市は年末に正月用品を商う市のことで、江戸時代の中頃から各所で市がたっていた。一時中断されていたが昭和40年、地元の町会、商店街の有志が江戸以来の伝統行事、下町の風物詩を後世に残すことを考えて、薬研堀不動尊歳の市保存会が結成され再開された。
この碑は保存会結成30周年を記念して平成8年に建碑され歳の市の由来等が刻まれている。